「古代末期」論争:「ローマ帝国の衰亡」と「文明の崩壊」は本当に起こったのか?
結論
- 「ローマ帝国の衰亡」と「文明の崩壊」をどのように解釈するかについては、200年以上前から議論が続いている。
- 「ローマ帝国は滅亡し、文明は衰退した」という「衰亡説」と、「衰退・滅亡ではなく新たな社会に変容した」という「変容説」の二つの説がある。
- 両説は相互に批判し、一方で補完し合う関係でもある。
壮大な解釈違い:「衰亡説」と「変容説」
西ローマ帝国は5世紀に政治的に消滅したが、その前後の3~8世紀の約500年間(古代末期)をどのように捉えるべきかについては意見が分かれている。
大きく分類すると、「衰退・滅亡でなく新たな社会に変容した」という「変容説」と、「ローマ帝国は滅亡し、文明は衰退した」とする「衰亡説」がある。
(古代末期を示す期間は研究者ごとに違いがある。2~9世紀という場合もある。)
伝統的な文明衰亡史観
エドワード・ギボン(18世紀)からE.R. ドッズ(20世紀中葉)に至る古代史家は、古代末期を「ローマ帝国の衰亡」ひいては「古典古代」文明そのものの崩壊の時代と捉えた。(a1)
かつて絶頂を極めた古典古代の高度な「文明」が、ローマ帝国の衰退とともに転がり落ちるように崩壊と破局へと向かってゆく不可逆的な過程として語られる。(d1)
このような史観を「伝統的な文明衰亡史観」、または「啓蒙主義的歴史観」と呼ぶ。(d1)
エドワード・ギボン(18世紀)
「ローマ帝国衰亡史」の著者。一次資料を用いてローマ帝国とその没落、それに続く中世の本性について合理的・非宗教的な歴史を構築した。(b1)
ギボンは、ローマの没落とそれに続く「暗黒時代」到来の責任をキリスト教の台頭と教会の形成に求めた最初の歴史家の一人。この見取り図は啓蒙思想家と、英国および合衆国のプロテスタントの間で評判が良かった。(b1)
E.R. ドッズ (20世紀中葉)
五賢帝時代からコンスタンティヌス帝時代に至る社会の心性史的変化を、市民が合理的判断能力を喪失して宗教に傾倒していく「不安の時代」の道筋として読み解いた。(a1)
ピレンヌ・テーゼ
アンリ・ピレンヌ(20世紀前半)
「マホメットとシャルルマーニュ」の著者(没後の書籍)。
「ピレンヌ・テーゼ」とは、ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌの古代から中世への移行に関する見解のこと。
ピレンヌ・テーゼ
①7~8世紀のイスラム教徒が地中海世界へ進出
②西ローマ帝国崩壊後も続いていた地中海商業が麻痺
③西欧世界は農業社会として始まるという構想
この構想は歴史学界で賛否両論の大論争を巻き起こした。(c2)
元々、欧米ではゲルマン人の侵入と定着が起きた5世紀前後をもって中世世界の形成とみるのが定説だった。(c2)
しかし、ピレンヌはローマ文化・社会のフランク王国時代への連続性(つまり、古代からの文化の継続)を見出し、ヨーロッパ世界形成の道筋を読み取った。以後、西ローマ帝国の滅亡をもって古代世界の終焉と断じる向きは大きく後退した。(c2)
一方で、ピレンヌはイスラームの登場をそれまでの古代文化を断絶させるものとしてネガティヴに描いた(a1)
古代末期概念の発展
伝統的な文明衰亡史観に対して、「古代末期(3~8世紀の約500年間)」の連続的進展による社会的・文化的・宗教的達成に独自の価値を見出し、それ自体に固有の価値が語られる場合がある。短期的な衰退は崩壊ではなく、より長期的な観点から変容、変化、継続、移行、発展といった積極的側面を照射しようとする立場である。(d1)
主に東方世界の社会・文化・宗教的側面に着眼し、一概には言えないが「楽観」、「多文化主義」的な雰囲気が共通している。(a1)
ピーター・ブラウン(1970 年代)以降
「古代末期の世界(1971年)」の著者。
ブラウンはギボン以来の文明衰亡史観を批判し、 2~9世紀初頭までの地中海世界の歴史を独特な分析概念「古代末期」として提唱した。(c1)
ブラウンは古代末期を「衰亡」、「停滞」の時代ではなく、文化や社会の「変容」の時代として積極評価しようとした。
また、ブラウンはイスラームを古代ローマとササン朝ペルシアの文化を継承し、キリスト教が開始した一神教的変革を完成させるものとして高く評価した。(a1)
ブラウン以降、「古代末期」は単なる古代の衰退期や中世への過渡期ではなく、「それ自体独自の価値を持ち、他とは区別され、かつ決定的な歴史の一時代」として学界内外にひろく認識されるようになった。(d1)
衰亡論-遅れたパラダイム-
ブラウン以降の古代末期研究は東方の宗教文化史研究が中心となったため、西方の帝国統治体制の解体についてほとんど触れることがなかった。帝国の衰亡を語ること自体が時代遅れとなったと見る風潮が強まったことも背景にある。(a1)
1990年代、衰亡論は「消えゆくパラダイム」(G.W.バワーソック)と呼ばれ、「古代末期」が英米学界を席巻した。(c1)
新しい衰亡論の登場
楽観主義的な「古代末期」論に対し、ブライアン・ウォード・パーキンズ等の古代史研究者は、考古学資料やゲルマン人研究の成果に基づき、崩壊・衰退の現実を直視すべく、強い懸念と批判を表明した。(c1)
主に西方世界の政治・行政・軍事・経済的側面に着眼している。
ブライアン・ウォード・パーキンズ
「ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ(2005年)」の著者。
西方の帝国統治体制の解体に再び着目し、考古学的なデータから見る限り5世紀初頭の帝国西方の「蛮族」による破壊は徹底的なものであり、90 年代の研究はEU 拡大期における楽観的な願望の産物であるとして批判した。(a1)
また、その背景には近年の多文化主義があり、これが文化の優劣や危機や衰退に言及しない古代末期研究の主潮となっていると考えている。(a1)
21世紀の「古代末期」論
21世紀を迎え、「古代末期」論は新段階に入った。(c1)
以下のように「古代末期」概念は活発に議論され、各論的な研究が著しく深化した。
・「古代末期」概念の学説史的位置づけ
・概念の内実に関わる再検証
・時代範囲の曖昧さ
一方で、「新しい衰亡論」の批判を受けて、「崩壊」の事実を容認するという重大な転機が起こった。(c1)
【個人的な感想】
衰亡説と変容説は相互に批判し合うだけでなく、相補的な関係でもある。
衰亡説は主に西方世界を扱い、経済やゲルマン人の移動などの唯物的な点に着目している。
変容説は主に東方世界を扱い、社会・文化・宗教に着目している。
これらの違いは、古代末期を捉える上での切り口の違いであって、矛盾するものではない。
地中海世界の文明の衰亡・崩壊について考察する際は、以下の点を念頭にいれたほうがいいだろう。
・どの時代か?(2~9世紀のどの時代に注目するか)
・どの地域か?(西方 or 東方)
・何に着目するか?(政治・行政・軍事・経済 or 社会・文化・宗教)
引用
・古代末期とは何か?─現時点でその研究状況をふりかえる─ (a1)
http://hdl.handle.net/10236/00027655
・中世ヨーロッパ ファクトとフィクション (b1)p37
・論点・西洋史学 (c1)p60-61, (c2) p72-73
・岩波講座世界歴史03 (d1)p230