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中世暗黒時代のヨーロッパはどの範囲を示すのか?

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結論

「暗黒時代」の「中世ヨーロッパ」とは、正確には5~8世紀の西ヨーロッパ(西欧)のこと。
「暗黒時代」の文脈における「中世」とは「初期中世」のことで、西ローマ帝国消滅後からの数世紀(5~8世紀)を示す。
西欧とは、現在でいうところのフランス、ドイツ、イタリア、イギリスの地域。

「中世暗黒時代」とは

まず、「暗黒時代」という用語自体が「中世」の1000年間を指すには曖昧でかつ誤解を招きやすく、不正確であるので、学術的には使用が控えられている。(b1)
中世 = 暗黒時代ではなく、「中世」と「暗黒時代」は区別する必要がある。
また、「中世」という概念の定義も曖昧で、多様な区分の基準がある。
伝統的な時代区分としてのヨーロッパ中世は、西ローマ帝国の滅亡(476年)から東ローマ帝国の滅亡(1453年)までの約1000年間を指すことが多い。
「暗黒時代」の文脈における「中世」は西ローマ帝国消滅後からの数世紀(5~8世紀)を示す。つまり、「中世暗黒時代」が指すのは、中世全体の1000年間という膨大な期間ではなく、初期中世の数世紀だけである。

「ヨーロッパ」とは
 -ヨーロッパ世界の形成の流れ-

4世紀 前半

ローマ帝国はその支配下に3つの文化圏を内包していた。
ギリシア文化圏、ラテン文化圏、オリエント文化圏である。

4世紀 後半 ~ 6世紀 中葉

395年にローマ帝国は東西に分裂するが、それぞれの文化圏が完全に自立したわけではなかった。
西ローマ帝国が476年に政治的に消滅した後、ユスティニアヌス大帝が再征服に部分的に成功したのは、一つの統一体としてのローマ世界がなお存在していたからだった。

7世紀 中葉

ユスティニアヌス大帝の没後、ローマ世界に大きな変動が生じた。
シリア・エジプトのキリスト教単位説異端はオリエント文化圏の独自性の表明であり、イタリアにはランゴバルト族が侵入し、皇帝の支配を掘り崩していった。

崩れつつあったローマ世界の一体性は、イスラム教徒アラブ人の地中海世界への進出によって最終的に解体した。

7世紀 後半

ラテン文化圏もまた、コンスタンティノープルの支配・影響から次第に抜け出していった。
帝国自体がヘラクレイオス帝(7世紀中葉)以降ギリシア化していったことや、アラブ人との戦いに忙殺されて、西方に対して充分な力をさけなくなったこともこの分離を進めた。
691-692年にユスティニアノス2世が開催した宗教会議を巡る皇帝と教皇の対立は、両文化圏の分離を象徴している。イタリアにおける皇帝の権威が教皇の権威に及ばなくなっていた。

8世紀 前半

やがて、ローマ教皇の権威が北方のフランク王国の実力と結びつつくことになる。
最終的に、カールの戴冠(800年)によって西ヨーロッパ世界の形成が完成した。
・偶像破壊論争(726年~)
・ピピンの戴冠(751年)
・ラヴェンナ総督府の消滅(751年)
・カールの戴冠(800年)による「(西)ローマ帝国」の復活

かつて地中海世界を覆ったローマ世界は、主にギリシア文化圏に限られるようになった。
このギリシア人によるローマ帝国は、ビザンツ世界として西ヨーロッパ世界とも古代ローマ帝国とも異なる独自の道を歩むことになる。

8世紀 中葉

イスラム教徒のイベリア半島進出によって、ヨーロッパ世界は現在のフランス、ドイツ、イタリア、イギリスの地域を示すようになる。

引用

・世界歴史叢書 ビザンツ帝国 (井上浩一)p33-38
・中世ヨーロッパ ファクトとフィクション (b1)p41

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